精神〜
「ラグビー日本代表は、なぜこれほどまでに世界で戦えるようになったのか?」
その答えの原点は、今から120年以上前、明治32年の慶應義塾大学のグラウンドにありました。
当時、欧米の近代化波波が押し寄せる日本において、一人のイギリス人教員と一人の日本人実業家が出会い、若者たちにひとつの「楕円形のボール」を手渡しました。
本記事では、日本ラグビーの真の起点である「慶應義塾大学での創部と、宿敵・YCAC(横浜外人クラブ)との激闘」について、当時の時代背景や指導風景、人間模様を極限まで深掘りして解説します!
日本のラグビーの歴史は、1899年(明治32年)の秋、慶應義塾大学部(現在の東京都港区三田)で始まりました。
当時、日本には野球や陸上競技などの西洋スポーツが普及し始めていましたが、「ラグビー(Rugby Football)」という身体を激しくぶつけ合う球技を知る者は誰もいませんでした。
慶應義塾にラグビーが持ち込まれた社会的・歴史的背景
文明開化と西洋スポーツの受容:明治政府が進めた富国強兵・殖産興業の裏で、若者たちの「心身の鍛錬」として西洋のスポーツが注目され始めていました。
慶應義塾の「独立自尊」の理念:福澤諭吉が唱えた「身体を頑健にし、気概を養う」という教育方針と、ラグビーの持つ自己犠牲・チームワークの思想が完璧に合致していました。
英国人コミュニティの影響:横浜居留地を中心に英国人が生活しており、彼らが日常的に楽しんでいたラグビーを日本人へ伝授する下地が整いつつありました。
2. 二人の創始者:E・B・クラーク教授と田中銀之助の運命的出会い
日本ラグビーの誕生を語る上で絶対には外せないのが、エドワード・B・クラーク(Edward Bramwell Clarke)氏と田中銀之助(たなか ぎんのすけ)氏という二人の存在です。
運命を交差させた「ケンブリッジ大学」の絆
エドワード・B・クラーク教授(1874〜1934)
横浜生まれの英国人。ケンブリッジ大学ヘールバーグ校で学び、英文学の教員として慶應義塾大学部に着任しました。
体格に恵まれ、運動神経抜群。自身も熱狂的なラガーマンであり、「日本の若者にラグビーの気品と精神を教えたい」という強い情熱を抱いていました。
田中銀之助氏(1873〜1933)
明治の実業家であり、横浜の富豪の家に生まれました。イギリス・ケンブリッジ大学へ留学し、本場のラグビーを体感して帰国。
クラーク教授の親友として、日本ラグビー創設の資金提供・用具調達・コーチングのすべてを全面的にバックアップしました。
なぜ彼らは日本人にラグビーを教えようとしたのか?
「健全なる精神は健全なる身体に宿る」:当時の日本の学生は勉強漬けで体力が乏しく、クラーク教授は学生たちの体躯の貧弱さを心配していました。
紳士の教育(Gentleman’s Game):単なる肉体労働のような運動ではなく、ルールを遵守し、相手をリスペクトする「英国紳士のたしなみ」としてのラグビーを根付かせたいという想いがありました。
文武両道の体現:慶應義塾の学生たちに、学問だけでなくグラウンドでも気高さを求めました。
3. 初期練習のリアル:英語のルールブックと手探りの指導風景
創部当時の慶應義塾ラグビー部(現在の慶應義塾體育會蹴球部)の練習は、まさに手探りと苦難の連続でした。
用具すらなかった時代の苦労と工夫
楕円形ボールの入手:当時の日本にはラグビーボールなど存在せず、クラーク教授と田中氏がわざわざ本国イギリスから輸入して取り揃えました。
グラウンドの環境:三田の綱町グラウンド(現在の慶應義塾中等部付近)などの硬い土の上で、泥まみれになりながら練習が行われました。
ユニフォーム(ジャージ):黒と黄色の伝統の「黒黄(こくおう)ジャージ」が誕生。ハチ(蜂)をイメージした意匠は、現在まで一貫して慶應ラグビーの象徴となっています。
英語で行われた初期のコーチング
原語そのままのルール理解:日本語のルールブックなど当然存在せず、クラーク教授が差し出す英語版のルールブックを、学生たちが辞書を片手に解読しながらプレーしました。
専門用語の洗礼:
「Tackled!(タックル)」
「Pass!(パス)」
「Scrummage!(スクラム)」
「Try!(トライ)」
学生たちはこれらの英語を必死に覚え、口々に叫びながらグラウンドを駆け巡りました。
「格闘技」に戸惑う塾生たち:ボールを持って走る者を容赦なく倒す「タックル」という行為に、最初は「礼儀に反するのではないか」「怪我をする」とためらう学生も多かったといいます。クラーク教授は自ら体を張って模範を示し、タックルの美しさと重要性を叩き込みました。
4. 横浜外人クラブ(YCAC)との国際交流:日本ラグビーの産声
ラグビーの形が整い始めた慶應義塾の学生たちにとって、最初の目標であり、かつ絶望的な壁となったのが「YCAC(Yokohama Country & Athletic Club:横浜外人クラブ)」でした。
YCACとはどのような組織だったのか?
横浜居留地の英国系スポーツクラブ:1868年に設立された、日本で最も歴史のある外国人会員制スポーツクラブ。
本場のラガーマンたちの集い:母国イギリスでラグビー経験を積んだ大人の男たちが集まっており、体格・技術・経験のすべてにおいて日本人学生とは比べものにならない強さを誇っていました。
1901年(明治34年)12月7日:日本初の「対外試合(国際試合)」
歴史的一戦の開幕:慶應義塾が創部からわずか2年で、YCACとの初試合に挑みました。
体格差という過酷な現実:
大柄で筋肉質な英国人大人チーム(YCAC)
小柄で華奢な日本人学生チーム(慶應義塾)
初陣の結果:結果は慶應義塾の大敗(0対35とも言われる)。しかし、慶應の学生たちは倒されても倒されても立ち上がり、相手の巨体に低いタックルで食らいつき続けました。
ノーサイドの精神の体験:試合終了後、YCACの外国人選手たちは慶應の学生たちの勇敢さを称え、ビールや紅茶を酌み交わしながら温かく迎え入れました。これが日本人ラガーマンが初めて体験した「ノーサイドの精神」でした。
5. 体格差を克服する工夫:日本ラグビーの原点「低さとスピード」
YCACとの定期戦を重ねる中で、慶應義塾の選手たちは「ただ正面からぶつかっても体格差で絶対に勝てない」という冷徹な現実に直面します。この課題から生み出された工夫こそが、現代の日本代表まで脈々と受け継がれる「ジャパニーズ・ウェイ」の原点でした。
慶應義塾が生み出した「日本独自の戦術」
低いタックル(ロータックル):大きな相手の上半身にタックルしても弾き飛ばされるため、相手の「膝より下」「足首」を狙って突き刺さる低いタックルを徹底的に磨き上げました。
素早いパス回しと展開力:相手が起き上がる前に、素早くボールをサイドへ展開し、スピードで外側のスペースを破る「展開ラグビー」の芽生え。
運動量とスタミナ:体格で劣る分、グラウンドを誰よりも走り続ける走力を日々の地味なトレーニングで養いました。
6. まとめ:慶應三田のグラウンドから全国へ
慶應義塾大学でのラグビー誕生は、単に「新しいスポーツが輸入された」という出来事にとどまりません。
それは、「体格のハンデを工夫と知性と根性で克服する」「敵をリスペクトし、ノーサイドの精神を重んじる」という、日本ラグビーの魂が形作られた瞬間でした。
エドワード・B・クラーク教授と田中銀之助氏が蒔いた一粒の種は、このあと早稲田大学や明治大学、同志社大学といったライバルたちへ、そして全国の学生たちへと爆発的に広がりを見せていくことになります。
今回は【日本ラグビー伝来史 第1部】を書いていきましたが第2部、第3部が気になる方はぜひこちらをご覧ください
