昭和初期から太平洋戦争下にかけて、ラグビーは「敵性スポーツ」として圧迫を受け、選手・指導者たちは戦地へと駆り出されました。
早稲田大学ラグビー部の発展を支えた新関猛氏や藤井達吉氏らが戦病死・戦死を遂げるという痛ましい悲劇が起きました。
インパール作戦から奇跡的に生還した大西鐡之祐氏は、亡き仲間たちの想いを胸に、戦後の早稲田・日本代表の指導者として「生命の尊厳」を説く伝説の精神を打ち立てました。
今回の記事にて日本ラグビー伝来史は最後になります。1部、2部の関連記事もあるので気になる方はぜひ見られて下さい
▶️【日本ラグビー伝来史 第1部】慶應義塾に芽吹いた「楕円の球」〜E・B・クラークと田中銀之助が遺した紳士の精神〜
▶️【日本ラグビー伝来史 第2部】ライバルたちの胎動〜早慶戦・早明戦の誕生と全国への波及〜
1. 昭和初期の隆盛から一転:軍国主義の波と「敵性スポーツ」の受難
大正から昭和初期にかけて、早慶戦や早明戦、関西の同京戦などが満員の観客を沸かせ、日本ラグビーは最初の黄金期を迎えていました。
しかし、1930年代後半に入り日中戦争から太平洋戦争へと戦火が拡大すると、ラグビーを取り巻く環境は一変します。
「ラグビー」という言葉すら奪われた時代
英語(敵性語)の禁止:イギリス発祥のスポーツであるラグビーは目の敵にされ、用語やルールの英語使用が厳しく制限されました。
「闘球(とうきゅう)」への改称:ラグビーという名称は禁止され、「闘球」あるいは「蹴球」と呼ぶことを強制されました。
試合の縮小と道具の不足:ボールを作るためのゴムや皮革が軍需品として統制され、練習用の球すら手に入らない極限状態に陥りました。
2. 奪われた若き才能:早稲田ラグビー部を襲った悲劇と「出征」
1943年(昭和18年)、ついに「学徒出陣」が発令され、大学で楕円球を追いかけていた若者たち、そしてチームを支えていた指導者たちが次々と戦地へ召集されていきました。
早稲田大学ラグビー部にとっても、この時代はあまりにも凄惨な犠牲を払うこととなりました。
早稲田の発展を支えた指導者たちの最期
新関猛(にいぜき たけし)氏の戦病死
人物:昭和初期の早稲田ラグビー黄金期を支えた名FW(フォワード)であり、引退後も熱心に後輩たちを指導した熱血漢。
最期:太平洋戦争に召集され、過酷を極めたビルマ(現ミャンマー)戦線などの激戦地へ出征。終戦を目前にしながら、病と過酷な環境により戦病死を遂げました。
藤井達吉(ふじい たつきち)氏の戦死
人物:早稲田大学ラグビー部の第2代監督を務め、学生たちの人間的成長とチームの戦術的基盤を叩き込んだ情熱の指導者。
最期:軍に召集され、戦地の渦中で命を落としました。日本のラグビー界の将来を担うはずだった尊い指導者が、二度とグラウンドに戻ることはありませんでした。
早稲田のみならず、慶應、明治、同志社など全国のラガーマンたちが、タックルで培ったその身体を国に捧げ、南太平洋の島々や大陸の荒野で散っていきました。
3. 生きて還った伝説の指導者:大西鐡之祐とインパール作戦の記憶
戦後の日本ラグビー、そして早稲田ラグビーの精神的支柱となったのが、後に日本代表監督として世界を驚かせることになる大西鐡之祐(おおにし てつのすけ)氏です。
史上最悪の作戦「インパール作戦」からの生還
地獄の戦地へ:大西氏は将校として出征し、史上最も無謀な作戦と称された「インパール作戦(ビルマ戦線)」の激戦地に投入されました。
目の前で途絶えた仲間たちの命:飢餓と病気、敵の砲撃によって、昨日まで笑い合っていた部下やラグビーの仲間たちが次々と倒れていく地獄絵図を目の当たりにしました。
奇跡の生還と誓い:命からがら生き残って終戦を迎えた大西氏は、「なぜ自分だけが生き残ってしまったのか」という深い苦悩を抱えながら帰国しました。
「死んではいけない」ラグビー指導への昇華
大西氏が戦後に早稲田大学や日本代表の監督を務めた際、その指導の根底にあったのは、「戦争への怒り」と「生命の尊厳」でした。
「タックルして倒れたら、すぐに起き上がれ。死んだフリをするな。生きてボールを繋ぐんだ」
彼の唱えた「完敗の許容」「闘球論」といった戦術・精神論は、単なる勝利至上主義ではなく、「戦争で死んでいった仲間たちの分まで、グラウンドで生を全うする」という魂の叫びそのものでした。
4. 焼け野原からの復興:ノーサイドの精神が照らした日本の希望
1945年(昭和20年)8月に終戦を迎えた日本は、主要都市が焼け野原となり、人々の心も荒廃し切っていました。
しかし、ラガーマンたちは諦めませんでした。
グラウンドに再び戻ってきた「楕円の球」
1945年秋の試合再開:終戦からわずか数ヶ月後、米軍に接収されたグラウンドや復興途上の競技場に、生き残ったラガーマンたちが集まりました。
服もない、靴もない:満足なスパイクもジャージもない中、作業着やつぎはぎの服を着てボールを追いかけました。
早慶戦・早明戦の復活:1946年には伝統の定期戦が相次いで復活。傷ついた人々に「スポーツの感動」と「復興への活力」を与えました。
5. まとめ:受け継がれる桜のバトン
明治の三田(慶應義塾)で蒔かれた一粒の種は、早稲田・明治・同志社などのライバルたちへ広がり、昭和の惨禍という暗黒の時代を耐え抜きました。
新関猛氏や藤井達吉氏らの無念、そして大西鐡之祐氏らが命がけで繋いだラグビーの灯火は、時を超えて2015年ブライトンの奇跡、2019年日本W杯での「ONE TEAM」の感動へと一直線に繋がっています。
私たちが今日、当たり前のようにラグビーを観戦し、子どもたちが笑顔でボールを追いかけられる背景には、時代に翻弄されながらも楕円球の情熱を守り抜いた先人たちのドラマがあったことを忘れてはなりません。